伝染病と公立昭和病院 〜 過去にはこんなことも… 〜
幕末から明治期にかけて日本で大流行した病気にコレラがあります。強い下痢と嘔吐に襲われ、感染後間もなくして命を落とす者が多かったことから「三日ころり」とも呼ばれました。幕末は、多くの死者は出たものの、箱根をはじめとする各地の関所の働きにより、旅人の動きを抑制したため大きな感染爆発は起こりませんでした。ところが、明治時代に入って関所が廃止され、人々の往来が盛んになるとコレラは全国に広がり、人々を恐怖に陥れました。
日清戦争時、日本へ帰還する兵士232,346人を3ヶ月で検疫し、細菌持ち込みを水際で防いだのが、後に関東大震災後の復興に力を尽くした後藤新平です。世界でも前例のない大規模検疫事業の責任者を勤めた後藤新平は、大規模な検疫所をわずか2カ月で建設し、コレラ感染者369人を隔離して感染拡大を阻止しました。
当時は効果的な治療法がなかったので、発病した病人を隔離することしか拡大を防ぐ方法がありませんでした。嘔吐したものに触れると感染することは知られており、飲み水の汚染が感染の拡大につながることも分かっていました。このあたりの村人の多くは、玉川上水からの分水を飲み水として使っていたので、上流に汚れた水が入り込んだり、上流で伝染病が発生したりすると、その影響をまともに受けてしまいます。この頃はきちんとした下水がなかったので、年に1〜2回川さらいをしましたが、あまり効果はなかったようです。
昭和2(1927)年、警視庁衛生部は田無警察署と北多摩地区の伝染病対策について話し合い、田無署管内の田無町・小平村・保谷村・久留米村(今の東久留米市)・清瀬村・大和村・村山村・東村山村の8か町村で、共同して伝染病の隔離病院をつくることに決めました。これが現在小平市にある公立昭和病院です。
現在では、「オミクロン株」の対策が、すでに日本でも講じられるようになりました。第6波があることを想定し、病院の努力(病床数と受け入れ態勢の確保)も報じられています。行政・公共機関の施策を享受しつつも、(前号(第8号)と同様ですが、)それでも私たち一人一人は感染防止の手を緩めることなく、日々の生活を送っていきたいものです。▼これらは、これからも欠かせない。(これらのピクトグラムは、堺市のホームページより一部をダウンロードしたものです。)