2024年10月03日

会館だより「かけはし」


2℃以上の温度上昇を防ぎましょう

 今年は暑い日が続きました。東京の熱帯夜(夜間の最低気温25度以上の日)の日数は57日、真夏日(最高気温が25℃以上の日)も連続64日で計87日、さらに猛暑日(最高気温が35℃以上の日)も22日を数え、いずれも過去最多で、暑さの記録を更新しました。

 東京は湿度も高く、汗が乾きにくく、体温も下がりにくく、体に熱がこもり、余計に不快に感じる夏となりました。

 記録に残る日本で最も気温の高かった時代は、平安時代から鎌倉時代にかけてです。文献に残る記述から、お花見の時期、年輪の広さ、地層の状況等から、そのことが分かっています。

 当時は世界的にみても気温が高かった時代ですが、兼好法師の徒然草には、冬の寒さはいろいろな方法で乗り切ることができるから、家の造りは夏の暑さ対策を十分にするようにということが書かれています。床を高くしたり壁などを少なくしたりして風通しをよくし、家の周りに池などを配置した寝殿造りは、耐え難い暑さを和らげるための工夫だと考えられています。

 アスファルトの道路やコンクリートの建造物、冷房などの人間活動による熱の影響を受ける現代は、当時よりもさらに気温の上昇が激しく、私たちはこれまで経験したことのない高温の時代に生きていると言えるでしょう。

気温上昇.png 今年、東京は、平年より平均気温が2℃高くなりました。東京以外にも平年より2℃高くなった地方は、かなりあります。わずか2℃の上昇では大したことがないと考えがちですが、このような状態が続くと、人間生活に大きな影響がでてきます。

 青森県の三内丸山遺跡は、5000年前、現在より2℃暖かくて主食となる栗も多く実り、獲物となる動物も多く生息していて、縄文人たちは、豊かな暮らしを送っていました。しかし、4200年前に突然気温が2℃低くなり、栗などの食料生産が激減、動物の数も減少して、縄文時代の衰退につながりました。

 現代に生きる私たちは、例えば「エアコンの設定温度を適切に保つ」「アクセルの踏み加減で速度調節をする」「野菜の加熱を電子レンジにする」ことの先に生み出すエネルギーの抑制があることを想像し、これ以上気温が上昇しないよう努力をし続け、生活していく必要があります。(T.Y.)

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2024年09月04日

会館だより「かけはし」


地震に備えましょう

 1923年9月1日(土)午前11時58分、関東地方を大きな地震が襲いました。ちょうど昼食前だったので、多くの家庭で火を使っていました。約10万5千人の死者のうち、焼死者が90パーセントを占めたのは、そのような理由があったからです。もしも大火災がなかったら、犠牲者は大幅に減っていたと思われます。

 関東大震災は東京の大火災による被害があまりに大きかったので、東京の地震だと思われがちですが、実際には神奈川県から千葉県南部にかけての地方も、大きな地震に襲われました。その被害の範囲は、1995年の「阪神・淡路大震災」の10倍以上に達するといわれています。

安政江戸地震.png 過去に関東地方に大きな被害をもたらした地震としては、

1703年12月の「元禄地震(げんろくじしん)」、そのわずか4年後の

1707年10月の「宝永地震(ほうえいじしん)」、

1854年12月の「安政東海地震(あんせいとうかいじしん)」、

 その翌日の「安政南海地震(あんせいなんかいじしん)」、

1855年11月の「安政江戸地震(あんせいえどじしん)」などをあげることができます。

 元禄地震では特に小田原の被害が大きく、小田原城下は壊滅、伊豆半島や房総半島には、高さ10m前後の津波が襲来し、死者も1万人以上にのぼったとされています。すぐそのあとに起こった宝永地震は記録に残る日本最大級の地震で、死者も2万人以上、地震の49日後には富士山に「宝永大噴火」が起こっています。噴火は2週間も続き、大量に噴出した火山灰のため江戸の町は昼間でも暗くなり、農作物にも大きな被害をもたらしました。

 それからおよそ150年後、立て続けに起こった「安政東海地震」「安政南海地震」「安政江戸地震」でも大きな被害を受けました。刈り取ったばかりの大切な稲むらを燃やして村人に津波の接近を伝えたという物語「稲むらの火」は、安政南海地震の際の出来事がモデルになっています。

 過去の被災を我が身のこととして今後の生活に活かす=「備え」をしましょう。(T.Y.)

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2024年08月03日

会館だより「かけはし」


水飯(すいはん)で夏を乗り切ろう

 毎日暑い日が続いて、体調不良を訴える人が増加しています。

 山形県の最上地方では、食欲の低下する夏場の季節食として、古くから素麺(そうめん)や冷麦(ひやむぎ)などと同様に「水まま」とか、「水まんま」という名前で、冷えたご飯に冷たい水をかけて「水飯(すいはん)」にして食べる食べ方がありました。ご飯をこのようにして食べるやり方は、平安時代から見られ、「今は昔」で始まる『今昔物語集』では、三条朝成(さんじょうのあさなり)という公家が水飯を食べたり、源氏物語の『常夏の巻』では、光源氏が水飯を食べたりしています。この時代は、まだお茶は貴重品で、冷やした緑茶や麦茶などをかけて食べる「冷やし茶漬け」はずっとあとの時代になってからの食べ方です。

水飯.png 少し硬めに炊いたり蒸したりした冷や飯をざるに入れ、流水で洗ってぬめりをとってからお椀に入れ、冷たい水をかけると、水飯になります。冷蔵庫などがなかった時代は、冷えたご飯を夏場に一晩おくと、腐らないまでも、少し傷んで匂いがするようになります。そんなご飯の表面を水で洗い流すことで、匂いを取り除き、安全においしく食べることができるようにしたのが水飯なのです。

 昔は、蒸した米(主に玄米)を乾燥させて「干飯(ほしいい)」にし、それを水や湯につけて膨らませて食べていました。干飯は現在の「アルファ化米」と同じようなものです。何年も保存がきき、軽いので携帯に便利です。旅人(たびびと)は干飯を袋に入れて持ち歩き、宿につくと宿屋から湯をもらうか、もらった薪で湯を沸かし、干飯を膨らませて食事をしました。翌朝、宿には湯沸かしに使った薪代だけを払ったことから、「木賃宿(きちんやど)」という言葉が生まれました。

 ところで、少し乱暴な言い方としてご飯のことを「めし」と呼ぶことがあります。しかし「めし」という言葉は、元々は乱暴な言葉ではありませんでした。明治以前の日本では、米を常食にしていたのは身分の高い人や裕福な人だけで、雑穀やイモを常食としていた一般の庶民にとっては、米はぜいたく品でした。そこで米を「めしあがりもの」とよび、そこから「めし」という言葉が生まれたと言われています。

 酷暑が続きます。皆様、くれぐれもご自愛ください。    (T.Y.)

posted by 豊島修練会 at 15:41| 会館だより「かけはし」 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする